2011年3月13日日曜日

思い、行動、不謹慎、自由

大変なことになった。でもそう思うのは、テレビを見ているとき。外には、ほとんどいつもどおりの家並みが静かに続いていて、僕は音楽を聴くことだって、DVDを見ることだって、デートすることだって、サッカーの練習をすることだって、アダルトビデオを見ることだって、実際にはほとんど何の支障もなくできる。公園に行けば、子供たちがいつもと全く変わらない様子でドッジボールをしていて、家から50mの井の頭通りには、今日も雑誌にでも載りそうなおしゃれな男女が自転車で行き過ぎる。

ちょっとだけ異様なのは、コンビニやスーパーの風景。おにぎりとかサンドウィッチとかカップめんとか、調理の必要がないか、ものすごく簡易なものはほとんど空になっている。でも、それもさっき僕がコンビニに行ったときに入荷されていたので、目に見える範囲での異常はこれでほとんどなくなったことになる。テレビやインターネットで、情報にふれない限りにおいては。

今回の被災者の人たちのために、あるいは直接的な被災者でなくても、困っている人たちのために、自分でできることがあるとすれば、それをやりたい。そういう感情はとってもかけがえのないものであると思うと同時に、当たり前のものじゃないかと思う。だってこれだけ、「そう思わなければおかしい」くらいに、ほとんどの人が持っているテレビのチャンネルのほとんどが悲惨な状況を映し出していて、ほとんどの人が持っているパソコンのインターネットを開けば、検索サイトのトップに情報が提示されているのだから。

行動。これもその思いが形になり、さまざまな情報を統合し、さまざまな動きと連携して効果を生もうとするものであるならば、もっとかけがえのないものだ。だけど、それをすることが可能だと思える人は、今回の災害については今のところごく限られている。ニーズを明らかにするための情報プラットフォームを整備すること、現場のニーズが明らかになってきたときのために、どんな物品や機材にでも変えることのできるお金を集めておくこと。きっと災害救援のプロ以外の人たちにできるのは、現在のところこのくらいまでなんじゃないだろうか。ふつうの人にできるのは、きっと自分のことを心配してくれる人に、大丈夫だと伝えることくらい。良くても、なけなしのお金を寄付することくらいではないか。

思いが氾濫していても、適切だと思われる行動に手が届かないように思える。だから考えたり、意見する時間は十分にある。こんなときに、いったい人はどうするのだろう。いったい被災者でない人たちは、みんな何をしているのだろう。

日本の人たちは、ほとんどの人が祈る習慣を持っていないから、まさか何時間も祈っているとは思えない。

ある人は、きっと家族や友人や恋人と、ニュースを見ているはずだ。だけど、それもいったいどのくらい見ていられるのか。1時間見ていれば、ほとんどの映像がすでに見たものになる。原発のメルトダウンの可能性に関するニュースも、いったい事態がどれだけ深刻なのか、一般人には皆目見当がつかない。とにかく悲惨で、切ない。

それならば気分転換をしてみようと、外に出かけてみる。ほとんどの店は普通に営業しているが、ジムがやっていなかったり、レコード屋さんがしまっていたりする。酒を飲んで騒いでいる人がいる。不謹慎だと言う人がいる。不謹慎?いったいどこからが不謹慎なんだろう。アフリカでたくさんの人が無残に死んでいる一方で酒を飲むのは不謹慎ではないのか。家族一同で災害のニュースを眺めて「かわいそうに」と言っているのは不謹慎ではないのか。帰る場所がなく、公園で夜を明かした人がいる一方で、暖かいオフィスで十分に確保された非常食を食べて寝るのは不謹慎ではないのか、そそくさと3時間の道のりを歩いて帰って暖かい風呂に入るのは不謹慎ではないのか。歩いた道のりが6時間なら不謹慎でないのか。

話がちょっとエスカレートしてきたことを自覚した上で書くと、東京のさも中途半端なこういう状況の中で、人々の中から噴出してくるのは、「恐怖」をのぞけば、「哀しみ」や「憐れみ」ではなく「苛立ち」のような気がする。この2日間、周囲で誰かの後ろ指をさしたくて仕方がないような雰囲気が感じられるようなことがあった。「緊急時」に突如として導入される、苛立ちを背景にしたあいまいな倫理基準っていうのは恐ろしい。実際に、多くのブロガーが災害後にbloggingを控えているみたいだ。それは、平時には何にでもコメントをし、批評をすることのできた彼らの言葉が、圧倒的な自然の猛威や大規模な死や破壊について力をもたないというだけではないはず。情報が限られすぎているという理由だけでもないはず。人々の苛立ちの矛先が「不謹慎」という言葉でもって一瞬で彼らに向けられる可能性があって、そのリスクを回避しなければならないからという理由もあるだろう。

だから、今、多くのパブリックな場で、平時には活発に行われてきた表現がストップしている。僕が定義する限りにおいての自由が失われている。僕の周りでも、動いていたはずのいろんなものごとが停止し出している。いろんなことが無意味になり、振り出しに戻ってしまうようだ。周りの人たちにも元気がない。

切ない。でも直接的に、今の災害によるさまざまな問題の解決のためにできることはものすごく限られている。

だからきっと、僕も苛立ってこんな文章を書いているのだろう。

こんなときには、いつもどおりに音楽を貼り付けて元気を出すに限る!
それとも、これも不謹慎なのだろうか?

外には春の空気が満ち溢れていて、僕らは、たぶん幸運にも、今生きているのに。

Fishmans ”あの娘がねむってる”