2009年1月31日土曜日

新聞をとる意味ってあるのか

昨日久しぶりに友達と会って、ウェブから情報を得ることの有用性とか、ブログっていうメディアの可能性についての話になった。

僕の兄も含めて身の回りには「一人暮らし・ネットなし」の人もいるし、もちろん個人が求める情報の量や種類は、その人のプライベートな興味関心だけじゃなくて仕事の内容にも大きく左右されるわけだから、そういう環境でやっていける人たちもいるし、いなくちゃおかしいっていうのはよく分かるんだけど。少なくとも僕は確実に、絶対に無理ですw。

一方で、僕は4月から社会人になるのに、そして相当なジェネラリストであることを求められる仕事につくのに、新聞を購読することに迷っている。

だって新聞を買わずとも、新しい情報は常にネットで見られるわけだし、いくつかの無料のニュースpodcastを購読して、毎朝ダウンロードして通勤すれば、満員電車で変な体勢で新聞を開こうとしなくてもいいし、歩きながら、自転車に乗りながらだって情報を入れられるわけで。それに英語のpodcastだったら、リスニング能力を維持することにもつながるし。そういう形で情報を取り入れ続けることによる”予期せぬ結果”は今のところそこらへんの学者さん達に憂慮してもらって、むしろ実験台になってやろうぐらいの気持ちでいるんだけど、どうなんだろう。

たぶん、新聞購読の長所で切実なのは心理的な部分だと思う。一つに自律の問題。新聞に毎月4000円近く払えば、無料のウェブサイトよりはきちんと読もうっていう気分になるかもしれない(たとえ、それがミクロ経済学における典型的な”非合理な意志決定”だとしても)。自律のために4000円を払えるかどうか-たぶん、高給でプライベートの時間がとても少ない仕事に就く人は払えるだろう、でも僕の場合はどうなんだろう。二つ目に、紙で来る新聞の方が読みやすいかどうか。僕は一般的にはPCの画面上でものを読むよりは紙媒体を読むほうが好きだけど、新聞に関してはそうは言えない。だって紙の方が圧倒的に文字は小さくなるし、記事が密集していて雑然とした印象を受けるから。一方で、それなりのお給料がもらえて、紙形式の新聞が好きな人は購読する方向になりそうだけど。たぶん環境のことを考えたらオンラインで読んだ方がいいですよね?もちろんPCにだってけっこうな量の電気代がかかるわけだけど、木を切ってパルプを作る必要はなくなるし。

ちなみに僕はウェブでも紙形式の新聞でも同じ情報を得ることができると仮定して上記のような話をしています。欧米ではNY TimesやWall Street Journalをはじめとして、すべての記事をオンラインで無料でアクセス可能にする方向に動いてきたけど、日本の新聞は僕が知る限りでは制限を設け続けていると思います。例えば、僕が興味のある日経の「経済教室」だってウェブにはアップされていないし。だから購読者にしかアクセスできない記事に読む価値があるかってところも現状では重要な判断基準になりそうですね。

いずれにせよ月々4000円っていうのは、ハードカバーの本がだいたい二冊買えるお金です。それに、このblogの左側のボックスにリンクを張っているように、僕が興味のあるアメリカや中国、世界の政治・経済について情報を仕入れるにはかなり有用な、専門家によるブログがたくさんあるわけです。新聞を購読するってことは、そしてそれを読むってことは、僕が他のソースにあたる時間を割くってことになるわけで、それも僕に新聞購読を思いとどまらせようとしている要因の一つです。

問題なのはたぶん、日本語による政治・経済についてのブログがアメリカのそれと比べて目立たないっていうことなんでしょう。でも、こちらによくまとめられているように、日本語でも相当な数のブログがあるみたい。未だにそれらの多くが匿名の筆者によって書かれているっていうことは、ブログ自体の知名度が上がればそれほど問題ではなくなるのかなぁって思っています。

たぶん、どこからどういう情報を得ていくかで、たとえば30年後の自分の知識の量とか、世界観みたいなものってだいぶ違ってくるんだろう。もちろん、仕事から得る知識、仕事のためになる知識というのもほんとに大事だと思うし、今後はそれを押さえた上で、情報の”耐久性”みたいなものを意識して、バランスよく時事の解説本や、教科書や、理論書に時間を使っていきたいなーって思っています。それ以外に小説を読んだりする時間も欲しいわけなんだけど。

上記のようないろいろなことを考慮すると、newsをとりいれる源としての、特に紙の「新聞」は、少なくとも僕の中では、相対的にそれほど重要ではなさそうだということになってしまいそうです。

2009年1月30日金曜日

僕だって障害者だった

4月から行う仕事の関係上、最近、社会福祉というものに少しずつ目が行くようになった。
思い出すのは、2次面接でされた質問。
「障害って何だと思いますか?」
僕はとっさのことで、身体とか精神、考える能力の機能の一部が弱まったり、働かなくなったりすることとか言って病気の話とかをしてしまったんだけど、この認識は確実に間違っていた。より正確には、重要な何かが足りなかった。
つまり、そういう"弱まり"とか”機能の欠落”みたいなものは、あるコンテクスト、ある環境の中で認識されるものだということ。結局障害というのは、障害者にあるものじゃなくて、”健常者”も含めた社会にあるものっていうことだ。

この前日経ビジネスにスウェーデンの国策企業サムハルに関するシリーズが掲載されていた。


従業員2万2000人、収入868億円、ROE9%で、Volvo、IKEA、DHLなどの一流企業をはじめとする1000社との取引がある。その従業員の90%が何らかの障害を持った人たち。実際のところ、868億円の収入のうち500億円は政府が補助金として出しているものらしいけど、「驚愕」なのはサムハルが年間約1000人を一般市場に転職されているということ。だって、障害者が一般市場で働いていくための力を育てることがサムハルの重要な役割であり、毎年、従業員の5%を転職させることが経営目標だから。外部に通用する人材をどんどん転職させていく一方で、(ROEや自己資本比率の水準など)株主の厳しい経営要求を満たしてきた、これが多分ビジネスの視点から見たサムハルのすごい点なのだと思う。

そんな特集の最終回にあったエピソードがものすごく印象的だった。2万人の障害者をマネジメントするノウハウを学ぶため、サムハルを訪れたトヨタ・ループスの常務が冗談混じりで言われたこと。

「あなたはスウェーデン語が話せませんよね。ここでは、あなたが障害者なんですよ。」

環境が変われば、誰もが不自由な状況に置かれ、誰でも障害者になり得るってこと。僕はこのエピソードを読んでいるとき、なんだか自分が海外での生活について考えていたことをうまく表現しているような気がした。障害者っていう言葉を使う必要はないとしても、留学生、特に言葉がうまくしゃべれない者は圧倒的な社会的弱者になる。誰かに理不尽なことをされても、言われてもうまくいい返すことはできない。相手に何度もものを聞き返せば場合によっては「あんたバカなの?」みたいな態度を平気でとられる。普通の恋愛なんてできないかもしれないって思う。それが環境によってある"機能の欠落"が初めて見えるっていうこと。そして障害者の「障害」を見ている、彼らに見せているのは社会だってこと。

海外生活について、留学についてもっと言えば、それはたぶんリハビリテーション(rehabilitation)のプロセスに近い気がする。Wikipediaによれば、rehabilitationの語源は、ラテン語でre(再び)+ habilis(適した)。中世ヨーロッパにおいては「教会からの破門の取り消され、復権すること」を意味していたらしい。つまり、誇りを回復させるためのプロセス。障害の機能回復で使われる「リハビリ」と同じこと。井上雄彦のリアルも、"健常者"も"障害者"にとっても本質的に変わることのない、自分の誇りを手に入れるための戦いのストーリーなんだと思うな。誇りを手に入れることとか守ることが普遍的なことだからこそ、あのマンガがあれだけ受け入れられているのだと思うし、それならばその戦いの苦しみを多くの人が知っているはずだ。そして環境一つで、自分がとても楽になれることも。

社会福祉の分野における一つの基礎的な理念となっているノーマライゼーション(normalization)っていう概念も北欧生まれらしい。「障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方」とのこと。スウェーデンでは早くも1954年から、障害者を健常者から隔離する施設の撤廃が始まっていた。最近は、たぶん”アメリカ型”なる経済体制への不信が募ってるからだと思う、主に北欧モデルのすばらしさがメディアでよく取り上げられていて、日本の多くの人の興味関心を引いていることが感じられる。でも、彼らは100年単位で、国と制度と共に社会福祉のメンタリティを育んできたわけだし、障害者への対応にはそのくらいの年数・経験のギャップが表れている気がする。例えば、日本における”賢い人たち”の障害者問題に対する沈黙とかに。障害者や障害の問題について、「軽々しいことは言えない」っていういかにも理知的なコメントや態度は、往々にして一生こういう問題について沈黙を続けるためのexcuseになるのではないだろうか。

Chinese Democracy


Washington Post, "In China, a Grass-Roots Rebellion"

僕が清華大学の公共管理学院で勉強していた5ヶ月間、民主化-democracyについて教授から何らかの意見を聞くことはほとんどなかった。それはまず、おそらく経済発展に焦点を当てた”開発系”の授業ばかりだったせいもあるだろうし、北京大よりはコンサバティブな学風で知られる清華大だからってこともあるのかもしれない。でも、それよりも、何よりも、金融危機の影響を少しずつ肌に感じながらも、世界史上もっとも著しい経済成長と呼ばれるもの(日本の”高度成長”を凌ぐ)を相変わらず経験していると思われていた中国において、彼らが民主化について語る十分な理由を持たなかったからというのが大きいと思う。

公共管理学院の留学生のmajorityはアフリカからの学生だった。中には政府要職を経験した人までいた。それに続いて中南米、そしてCIS出身の学生も多かった。彼らは一様に中国の奇跡的な経済成長から何かを学んで祖国に貢献しようという気持ちを持っていたし、その気持ちの裏で”アメリカ型”の体制や開発をところん嫌っているように見えた。そうじゃなかったら、わざわざ中国で(しかも中国人教授の完璧とはいえない英語で)授業を受けようとはしないだろう。もちろん、ネットの検閲とか、報道の一面性、一党独裁自体を好きな学生なんていない。でも、democracyなんていう、定義もあいまいで一度始めたら泥仕合みたいな議論を喚起する言葉を授業で持ち出すには、そんな形で教授の注意を削いで中国人学生たちのプライドを傷つけるには、中国の経済発展は華々しすぎたし、僕らは忙しすぎたのだ。

中国のモデルはよく"開発独裁-development dictatorship"と言われる。卑近な例としては、リー・クアン・ユーのシンガポールにおける開発モデルがある。wikipediaには開発独裁についてこうある。

経済発展のためには政治的安定が必要であるとして、国民の政治参加を著しく制限する独裁を正当化すること。

開発独裁の有効性については、たぶん昨今の日本の状況と比較すればよく分かる。ほとんどすべての重要な決議が野党・民主党の反対にあう。”改革”なんて遅々として進まない。外交問題にすら超党派による合意があるのか微妙で、不安定。決定的な政策を打ち出せず、官製不況なんていう言葉も出て、果てには政治への不信まで語られている。日本は、少なくとも一見したところでは、確実に中国より民主的な国だけど、多くの人にとってその政治が信用できないのなら、民主的である意味なんてどこにある?「豊かでありたい」っていう国民の基本的な要求に対応できないなら、政府の正当性(legitimacy)はどこにある?経済成長や環境面での対策まで含めた”国家目標”を中国は淡々と達成していこうとしているのに。っていうことになる。実際、日本でめまぐるしく交替する首相への支持が例外なく急落してきた一方で、最近まで中国では7割くらいの人が共産党政権の成果に満足していたのだ。

でも、開発独裁は経済の谷にたいして脆いというのも多分確かだろう。現に今もそうだけど、景気が沈もうとしているときにはいつだって「暴動」のリスクが懸念される。政権党にmismanagementの責任を形式的に取らせること-つまり辞めさせることができないから。暴動に比べたら、冒頭記事の嘆願書なんてかなり穏便なものかもしれない。でも、このタイミングで「民主化」の声が大きくなっていることは、たぶん気に留めておくべきことなんじゃないかな。もしかしたら中国では今Washington Postへのアクセスもシャットダウンされてるかもしれないけど。でも、民主化の要求と経済不安が一体になっていった場合、今年か来年か天安門事件以来のおおごとに発展する可能性もなくはないのではと。

僕個人としては、一貫して中国経済の見通しについては楽観的だったんだけど、最近その楽観的な見方を少しだけ疑い始めている。広東あたりのおもちゃ工場の相次ぐ閉鎖だとか、出稼ぎ労働者の解雇・失業の増加といった表面にあらわれているものはただの前触れなのかもしれないって思うところがある。
もしそうだった場合、中国の安定だけじゃなくて、国際的な貿易摩擦の激化とかかなり大変なことになるかもしれないけど。それについては後でまた書きたい。

あ、ちなみに冒頭の画像は、去年中国政府がリリースに激怒して現地で販売禁止になったらしいガンズですw。ネタです。

2009年1月29日木曜日

戻ってきて、思うこと

"The Notebook"

昨日妹に薦められて見たこの映画もすごく良かった。ライアン・ゴズリングが終始何とも言えない優しい表情をしていますw。映像がほんとにきれい。過去と現在のアンバランスとか、突き抜けるような過去の幸せとは別の今の「あり方」とかがけっこうリアルな気がして、普通のラブストーリーとは一線を画している映画だと思います。たぶんこれもまたあとで観たくなる気がする。

先週実家に戻って来てから、もう8日間が過ぎた。やっぱり実家の生活はものすごく快適。清華大学の寮と違って、お湯も好きな時間にきちんと出るし、ご飯を食べるのに食堂まで歩く必要もないし、本屋さんも近くにあるし、Youtubeも(おそらく)すべての画像が見られるし。なんせすべての食べ物がおいしい。モノはすべてが高い気がしているけど、その感覚が今後僕の薄給を節約していくための原動力になる気がするから、まあそれも良いかもw。

1年半ぶりに関東の郊外にある実家で腰を据えて生活するっていうのはどういう気持ちなのかって帰国前はいろいろと想像を巡らせていたけど、1年半前の続きをやっているような気分にたびたびなることに気がついた。最近ずっと昔に読んだ小説を読み返したり、以前自分が個人的に編集した季節もののコンピレーションCDを掘り返して聞いたりしたんだけど、同じものを読む、聴くっていうこと自体からは新たな発見があるとしても、結果として僕はそういう行為のあとにちょうど数年前そうなったような気分になる。気分としては、まるで自然科学の実験をしてるみたいに、同じ結果が出る。たぶん、この先気分を変えたくなったら、やっぱり場所を変えるのが自分にとっては手っ取り早いってことなんだろうな。そしてこうやって少しずつでも、自分の扱い方とか、身の振りようみたいなものを覚えていくのが年を重ねていくっていうことの効用の一つなのかもしれない。

そうそう、それに関東はやっぱり冬でも暖かい。帰って来てからずっと、春のまだまだ近付いてこない足音を遠くで聞いているような気持ちになっている。3月にでもなって、風の温度が少しずつ上がってきたら、それに花のにおいとかが混じったりとかしたら、たぶんいつもと同じようにそわそわし出すんだろうな。
やっぱり春と夏が楽しみ。

ということで、僕が高校時代からずっと、春になると、あるいはなぜか春を想像して聴いているジャパニーズ・ポップスの名曲を。この曲なんてまさに”同じ気分”の源泉な気がしますw。

Hiroshi Fujiwara * Shinichi Osawa feat. Crystal Kay
"Lost Child"


2009年1月28日水曜日

プラダを着た悪魔

"The Devil Wears PRADA"

前から気になっていたけど見ていなかったこの映画を昨日見た。典型的なinitiationの物語だけど、奇をてらわずとも、躍動感あるテンポで、つぼを押さえた配役で撮れば、いつだって観衆にきちんと訴えかけることができると言っているかのような、ものすごく爽快な映画でした。

僕は以前からメリル・ストリープこそがハリウッド・ナンバーワン女優だと信じている大ファンだし、昨年の傑作Get Smartを見てから、(特に彼女が赤外線センサーをくぐりぬけるシーンを見てからw)アン・ハザウェイもわりと好きなので、この組み合わせは完全にツボ。そして極めつけは、ニューヨークやパリの素敵な街並みと、それらの街の煌びやかさそのもののようなファッション・ビジネスの世界。僕はいつも同じ服を着ていることで仲間うちでは有名なのですが、おしゃれをすることの大事さとアパレル業界に憧れる気持ちもよく分かりましたw。

でも服を買いに行って試着とかしていると、「これ買う前に筋トレとかきっちりやっておいた方がいい」っていつも思って徐々に気持ちが萎えてくるのは僕だけなのかな。つまり”サイズ4”の重要性を毎度感じるわけなんだけどw。まずは、それなりの運動、そして就職用に多少はまともなスーツとシャツとネクタイを揃えることから始めたいと思います。

いやー、それにしても良い気分にさせてくれました。

2009年1月27日火曜日

このブログについて

ラサのセラゴンパにて - Jan. 18, 2009

僕は2009年1月にアメリカと中国への大学院留学を終え、 MA in International Relationsを取得しました。2009年4月からは、東京で社会人として、安全保障や開発、社会福祉にかかわる分野で働くことになっています。このブログは、留学生活を経た後も、世界で起こる様々なことに目を向け続けること、自分の考えや興味を持ったことの断片をアウトプットし続けることをテーマにした僕のノートです。もともと興味のある分野が広い上に、まだまだ勉強中の身ですので、記述に間違いもあるかとは思いますが、お気づきの際には、お気軽にご指摘いただけると幸いです。

一方で、政治や経済のことだけじゃなくて、音楽や小説や映画をはじめとする僕の趣味とか、旅行の記録もつけていきたいと思っています。そういう意味では、このブログは本当に断片的なものになるかもしれません。どこにも行けない個人的な思いつきや感覚の集積になってしまうかもしれません。それでも僕は、それらの断片をさらし続けて、希望的には、感想や意見やその他いろいろなリアクションをもらいながら断片を少しずつ繋いで、自分のアイデアやビジョンを深めていきたい、それに楽しみを見出していきたいと思っています。気楽に、思いのままに、いろんなことを書いていきたいです。

ちなみに、ブログタイトルはBob Dylanの引用です。Tourという言葉には巡業とか、視察旅行という意味があります。僕はDylanのように、多くの人の前で歌うという意味での巡業はできないけど。でも、仕事を含めた実生活においても、物を考える面においても、僕は歩みを止めることなく、いろんなところを巡って、自分を表現して、いろんなリアクションや刺激を受け入れ続けたいという欲求があります。そして、それを続けることによって、僕が人生においてどこか想像もしなかったところまで流れていけることをちょっとだけ期待しつつ、このブログを綴っていきます。

"Being on tour is like being in limbo. It's like going from nowhere to nowhere. "

"A lot of people can't stand touring but to me it's like breathing. I do it because I'm driven to do it." - Bob Dylan